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思想・哲学・宗教, 未来の予測と創造

国のまとまりをつくっていく基礎になるものはなにか?

かつての日本には国のまとまりをつくるものとして武士道や天皇の存在があったといえるでしょう. 欧米においてはいまでもキリスト教がそのやくわりをはたしうるのかもしれません. しかし,現代の日本においてはどうでしょうか? もっとべつのしかけにたよらざるをえないのではないでしょうか?

Nitobe-yen.jpg 欧米型の資本主義においてはキリスト教が国のまとまりをつくっていくやくわりをはたしてきたことが,マックス・ウェーバーなどによって指摘されています. それに対して,キリスト教がそのやくわりをはたしえない日本においては,「武士道」 がそのかわりをはたしてきたと 新渡戸 稲造 はかんがえました.

Ito-yen.jpg 新渡戸 稲造 も明治に生きたひとですが,明治時代の主流の思想においてはもっと絶対的な存在が必要とかんがえられ,伊藤 博文 らはそれが天皇だとかんがえました. 大日本帝国憲法における天皇の地位はこのようにしてきめられたものだと,小室 直樹 などは指摘しています. しかし,実際には天皇は大日本帝国憲法に書かれているほど専制的な権力をもつことはできませんでした. 昭和天皇に関しては,大権を行使したのは二二六事件のときと終戦時の午前会議の 2 回だけでした.

Mishima.jpg 戦後の日本においても天皇のはたしたやくわりを過小評価することはできないでしょうが,もはやだれもが天皇を敬愛するというような状態ではありませんでした. 三島 由紀夫 の割腹自殺は自衛官にも,国民のおおくにもインパクトをあたえることはできませんでした. 天皇によってささえられなくなった戦後において,ひとびとの規律をただし,こころのささえになったものは,会社や学校などの社会的な組織と家族だったといえるでしょう.

しかし,いまや 「価値観の多様化」 によって,そののこされた価値の源泉もその座からひきずりおろされてしまったようにみえます. もう一度,価値観をある程度収斂させて,会社や学校,そして社会の規律を回復し,こころのささえとして機能させられるようになるでしょうか? つまり,東 浩紀 らがいう 「規律訓練型」 の社会を回復することができるでしょうか. この点に関しては悲観せざるをえません.

とすると,こころのささえは個々人がみずからみつけるほかはないでしょう. しかし,すくなくとも多様化がすすんだままの状態で規律を維持していくためのしかけが必要です. つまり,社会的なアーキテクチャを構築することによって,東 浩紀 らがいっているように 「環境管理型」 の社会をつくりあげる必要があるとかんがえられます.

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