和英辞典で 「景観」,「風景」 ということばをひくと,どちらも landscape, scene という訳がでてきます. これは,実は 「風景」 ということばが英語には完全には訳せないことのあらわれだとおもいます. Wikipedia の 「景観」 の項には,景観は客観的であり風景は主観的だということが書かれていて,これがただしい説明なのだろうとおもいます. しかし,「景観」 はむしろ landscape の訳語としてあてられた (つくられた?) ことばだとおもうのですが,日本語には 「風景」 ということばがあるせいなのか,私は 「景観」 ということばに,つめたさを感じてしまいます.
「景観」 ということばからは,ひとや生物がいない,つめたい人工物でつくられた空間を想像してしまいます. これは,landscape ということばからは感じないものです. 「自然景観」 ということばもあるので,また 「景観」 は landscape の訳のはずなのでこれはおかしいのですが,それにはいくつか理由があるとおもいます.
ひとつの理由はすでに書いたように,日本語には 「風景」 ということばがあって,それと自然に対比されてしまうことがあるようにおもいます. しかし,それだけではないようにおもいます.
都市計画などに関して 「景観」 ということばがつかわれるとき,ことさらに人工物からなる空間が意図されます. 人工物は自然とも調和するべきですが,都市計画などにおいては緑地なども 「つくられた自然」 であって,もともとある森林などがそのまま,いかされることは,むしろまれです.
さらにいえば,いわゆる景観論がめざしている究極のものが,五十嵐 太郎 によれば 金 正日 がつくったピョンヤンのまちのように,「何ごとも起こらない,変化なき永遠の定常状態」 (「美しい都市・醜い都市」) だということを私も感じているからだとおもえます.
(写真は横浜みなと未来の “ビョンヤン的風景” です.
「優景計画・ukplan: 景観とまちづくり」 から引用しましたが,もとのブログ記事の意図とは無関係です.)
「景観」 ということばがほかのひとにどのようにうけとられているのか,わかりません. しかし,もし同様にうけとられているのであれば,これは使用をさけるべきことばなのかもしれません.
