Subject: [Kiroku:	(191)] Kirokushitsu Tsuushin No.16!!
Date: Thu, 22 Feb 96 23:54:12 +0900
From: funaken@ccs94.cla.kobe-u.ac.jp (Takeo Funahashi)
...[中略]...

 舟橋@震災・活動記録室 です。

大変長らくお待たせいたしました。遂に、今年初めての記録室通信が発信でき
ます。今回は、大変な「難産」でしたが、皆さんに喜んでいただけるような内
容になっていれば嬉しく思います。また、内容についてもコメント等頂けると
助かります。

転載は自由ですので、よろしくお願いいたします。それでは。
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                    記録室通信(Renewal)
                                22-Feb-1996 第16号

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                                             Quake Chronicle Project
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               −はじめに−

 前号では、年末年始の被災地の状況をお伝えし、私達自身も現場のボランテ
ィアと活動を共にしました。その後、震災一年目をむかえ、記録室は長い話し
合いの時を持ちました。その結果、記録室は新たに歩み始めることになりまし
た。
 記録室の第1期は、震災当初のボランティア活動の記録を集めることを主た
る目的に活動してきました。そして、収集した資料の一部も、神戸大学附属図
書館「震災文庫」におさめることが出来ました。
 今後は、現場で今何が起きているのか、何が問題なのかを様々な角度から皆
さんに提起し、共に考えてゆきたいと思います。もちろん、その活動を通して
当初からの主たる目的である記録の収集もしてゆきます。加えて、資料の公開
に向けて、様々な作業も継続してゆくつもりです。

 今回の通信は、第2期をむかえた記録室のメンバーそれぞれの思いをお伝え
します。皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。



 さまざまな試み −遅ればせながら、一年を経て

                   震災・活動記録室 代表・実吉 威

 フリーランスの仕事の傍ら、避難所で親しくなって今は仮設住まいをしてい
る老母子宅にご飯を作りに通ったり、震災で勉強の遅れがちな中学生相手に手
作りの塾をしたりしているAさん。最近親しくしている彼女が、ある時こう言
った。
 「私は震災前は、おしゃれで、ハイカラな神戸にプライドを持っていたけれ
ど、その上っ面の部分が今回ぜんぶ引き剥がされてしまって、その誇りが実は
何の根拠もなかったことに気がついたの。でも、うわべを剥がされた裸の神戸
に対して初めて、深い愛着を感じるようになったのよ」
 彼女は、無理せず自分の出来る身の回りのことから、足元から、神戸という
「社会」にかかわろうとしている。

 神戸市内ではあるが被災の軽微な地域に住むBさんとCさん。Bさんは、
「こんなの遊びだよ」などと冗談めかしながらも、その実、生き残った「幸せ
な」者としての務めと「子供たちにはもう少しましな社会を」という思いを原
点に、行政職員を含めて地域での地道な人間関係作りから、中学校区単位の地
域の防災拠点作りや「神戸」ブランドの福祉関連製品開発など、豊かなアイデ
アと行動力で成果を上げている。
 Cさんは被災地の中の公園を拠点に、いつでも来ていつまででも滞在でき
る、そして一人ひとりを大切にしあいながら、いろんな人と出会い学びあって
ゆくという、支援と生活が融合したような共同体を若い仲間たちとともにつく
って
いる。

 京都に住み、母であり主婦でもありながらフルタイムの仕事もこなすDさ
ん。彼女は京都で「日常」の暮らしを営みながら、「行政に切り捨てられてい
る」
テント村や旧避難所に暮らす「最弱者」と怒りや悲しみを共にし、ともに闘い
、その「権利を回復する」ため、いまも神戸に通い続けている。

 支援する人・される人という二分法はもはや適切ではない。被災した人(と
りわけその中の最弱者)、被災の軽微な人、その周辺の人、更により遠くの人
・・・。この大地震という出来事をきっかけに、様々な立場の人々がどのよう
に助け合い、どのように「私たちの」社会を作ってゆくのか。人々は、社会は
どのように変わってゆくのか。記録室はそのありさまを記録し、伝えてゆこう
と思う。

 今回のことで、市民の安全で豊かな暮らしの確保は、行政機関だけに頼って
はいられないことは誰の目にも明らかになった。これを仮に行政の機能不全と
呼ぶなら、その足りない部分について、市民が自発的に補おうとするにせよ、
あくまで行政の責任を追及し、十全な施策を求めるにせよ、あるいは行政をと
ことん支援するにせよ、それらはスタンスこそ違え、いずれも、行政だけでは
十分に果たせなくなっている「公的な」機能を、市民が自発的に分担し始めた
という点では一致している(行政にその責任を全うするよう迫るという役割を
含めて)。
 市民による多彩な「おおやけ」の営み。「闘い」「糾弾」という言葉を使お
うが使うまいが、それらは多彩であることと、社会の問題にかかわろうという
まさにそのことによって、高い社会性を持っているといってよい。社会にとっ
て必要な機能が、市民によってどのように担われてゆくのか、それを個別の事
例に密着して、丹念に追ってゆきたい。

 「政治的なこと」がここまで徹底的に忌避される社会では、個人と社会の関
わり方は全面的な政治化か、全くの無関心かの理不尽な二者択一を迫られてい
る。そうではなく、日常の「普通の」暮らしの中で、広く「社会的なこと・お
おやけのこと」に関心を持ち、参加し、必要ならば異議申し立てや対案の提示
などの意志表示もする。私はそのような営みや、そのための仕組み作りに関心
がある。

 冒頭のAさんはこうも言っていた。「『人災』という言葉は使いたくない。
だってその『人』には私も含まれるんだもの」
 私はこの震災に関して言えば、いまだ「外から来た者、いつかは帰ってゆく
者」である。そんな立場の一人として、何が出来るのか。そんな立場だからこ
そ出来ることは何か。それが当初からの私の問題の立て方であり続けている
(日本人である私は、『人災』の『人』の一人でもある)。一つのフィールド
は間違いなくこの記録室における、記録や情報流通の作業だが、それとは別
に、「地域の人とともに」新しい街を創ってゆく、そんな現場をいま、探して
いる。


 昨年末の第15号で、年末年始の仮設住宅の現状をお伝えしました。今号は、
震災後一年を経過した仮設住宅を、ひきつづきレポートします。


 仮設住宅の内と外 −おじさんの悲しみ
                            季村 範江

 震災前、Aさんは長田区の菅原市場の近くで、ご主人と二人暮らしをしてい
た。そんなAさんと、いつの頃から親しく話をするようになったのか、家はつ
ぶれ、火事のなか、九死に一生を得て、その後、避難所での大変だった生活
を、淡々と私に語ってくれた。昨年の六月、垂水区のS仮設住宅(ここは私の
家から歩いていける距離)に移ってきたが、震災以来ご主人はすっかり元気を
なくし、部屋の内に閉じこもりがちだとか。

 「孫が顔を見せに来てくれるときだけ、うれしそうにしている人やけど、い
つもは黙ってテレビを見てるだけ。このままでは、鬱病になるんでは。」

 週一回、私たちがそこの「ふれあいセンター」で開いている編み物教室で、
こうAさんは編み棒を動かしながら語ってくれた。Aさんはできるだけ外へ出
ようと努めている。ご主人の分まで。

 このような話は、Aさんだけではなく、他のたくさんの人からもよく聞く。
今までまじめにこつこつやってきた人生の後半で、思いがけなく震災に遭遇
し、全てを失った人のやり場のない気持ちは、一年過ぎても決して癒されるこ
とはない。さらに、震災で財産も職も失ったおじさんたちは、気力をなくし持
病を悪化させたり、自暴自棄になってアルコールで気をまぎらしたりしてい
る。まして、最愛の人を失い、ひとり暮らしになってしまったおじさんの悲し
みの深さなどわかるはずもない。立ち直るきっかけすらつかめずに、心の内に
うずくまっている人が、仮設の内にいったいどれくらいいるのだろうか。

 一見、明るく見える人生の後半を迎えたおばさんたちも、部屋の内でうずく
まるおじさんたちと、実は背中合わせで懸命に何かに耐えているのを、私は会
話のなかで垣間みてしまい、はっとすることがある。

 秋の頃から、私たちの開くお茶会にひとりふたりと重い腰を上げて出かける
ようになったおばさんたち。彼女たちは外に出かけて同じ様な苦しみを体験し
たもの同士、話すことによって、つとめて気持ちを軽くしようとしているよう
だ。逆にきっかけをつかめず、内に内に閉じこもりがちのおじさんたち。うず
くまっている場から、外に出て、人との係わりのなかで立ち直るきざしを見つ
けてほしい、そんなお手伝いが出来たらと思っている。



              −記録室より−

 震災から1年以上を経て、記録室のメンバー達にも様々な心の変化が見られ
ます。今回はメンバーの1人である舟橋に、今の心境を綴ってもらいました。


 「こうべのにんげん」である私
                             舟橋 健雄

 たかだか20年余り生きてきただけだが、私にとって1995年は一番意味のある
年であった。「神戸で生まれ育った神戸の人間だ」という意識がクリアになっ
たのである。今までそのことを深く考えたことのなかった私だが、この震災で
神戸のことを自分のことと繋げて考えるようになった。
 神戸がおしゃれでエキゾチックな港町であることに一種の誇りを持っている
という意味ではない(震災前はむしろこのように思っていたのだが)。そうで
はなく、震災後の傷ついて様々な矛盾が明らかになった神戸に住んでいる人間
の一人として、そのようなまちにしてしまった一人の人間として、その現実に
関わっていこうという意味である。
 『震災・活動記録室』の一員として活動している理由がここにある。

 震災後、阪神・淡路に駆けつけた数多くの「ボランティア」と呼ばれた若者
たち。彼らが駆けつけたのはなぜだったのだろうか?未曾有の都市型大震災で
あると言われ、テレビの映像を通してその被害の甚大さを知った私と同世代の
若者が、大挙して神戸にやってきたのは事実である。彼らを駆り立てたもの
は、様々であろうが、悪い言い方をすれば「自分捜し」や「野次馬根性」であ
ったのかも知れない。(かく言う私もそうであったと思う)。
 ただ、彼らには彼らの「日常」があり、いずれはそれぞれの生活に戻らねば
ならなかった。去年の4月頃から、徐々にボランティアと呼ばれた若者の数は
減っていった。その一方で、残された数少ない若者が自分に無理を強いながら
活動を続けていた。しかし、そのような無理はそう続けられるものではない。
彼らもいずれ戻らねばならなかった。
 私も、「非日常」を引きずってきた一人であった。とにかく忙しかったのだ
が、その忙しさの意味を問い直すことを忘れていた。

 私はもう戻ろうと思う。しかし、これは震災前の「日常」を取り戻そうと言
っているのではない。私は、今までとは違った「日常」を選ぶ。しばらく行っ
ていなかった大学にも行こうと思うし、遊びたい時には思いっきり遊ぶ。
 しかし、仮設住宅で寒さに震えているおばあちゃんも、「まだボランティア
してるん?」と私に向かって言う知人も、同じ神戸の人間である。その事実に
目をそらさず、関わっていきたい。

 もう一つ心に決めたことがある。それは、「長田」という地域に対する思い
である。
 私は、今でこそ北区に住んでいるものの、小学校時代を長田で過ごしてい
た。それも、まちづくりで全国的に有名な真野地区で育っていた。事務所が長
田にあるというのに、長田で小学校時代を過ごした記憶には目を背けていた。
記憶から自分を離して考えていたのである。
 しかし、あるきっかけで、私はこのことに気付き、自分への問いかけが始ま
った。そして、ようやく人に言えるものが出来てきた。それは、自分の中で長
田というまちが「故郷」から「現場」へと変わってきたということである。
 この長田というまちが、これからどうなっていくのか?この地域で活動して
いる人々がどのようなことを感じ、どのように変わっていくのか?そして、自
分はどう変わっていくのか?・・・
 すでに大きな転機の中にいる私は、今後「こうべのにんげん」として、記録
室の中でこれらのことに真正面から関わっていこうと思う。



 「心づくし」ということ
                             季村 敏夫

 私はボランティアという言葉に抵抗がある。

 ボランティア批判は、できうる限り避け、彼らの良い所を積極的に評価す
る。こんな意見がある。しかしそれでよいのか。

 春まだき、涙ながらに糞尿掃除に明け暮れていた学生たちの後ろ姿を、私は
決して忘れることはないだろう。その後、あらゆるところで日常が戻り始めた
とき、彼等に致命的な弱点があらわになった。避難所から待機所、仮設、場が
変わるにつれ、彼等にとまどいが見えはじめた。あのときの感動的な姿と、あ
らわになった問題を切開できず混迷を深める姿とのはざまを、批評は抉りださ
ねばならない。

 連日マスコミに取り上げられてきた若い人のボランティアも、現在、被災後
の社会との衝突を巧妙に逃れるという、奇妙な問題を抱え宙吊りになってい
る。活動内部の亀裂が一層露呈する。或いは、更に隠蔽を重ね、活動停止の延
命が企てられる。しかし、そのことをいったい誰が深く受けとめながら、なお
地道な活動を継続しているのだろうか。

 たとえば、あの日以降の、とにかく素手で、裸で体験した日々を語り合うひ
とときがもたれる。手を取り合う若者と仮設住宅から来たおばあちゃん。それ
はそれで感動的な光景だが、どこか少し違う、こう思うのは私だけか。私は
「ボランティア元年」なる動きに、水をさしているのだろうか。

 「そんな暗いこと、いわんと」「明るく、前向いて」こう言われると、私は
一瞬たじろぐ。とりわけ「明るく」というスローガンには、神聖不可侵の響き
がこもり、批判者を無意識に威嚇する。

 もっと「暗く」と言っているのではない。どうしても「明るく」なれない心
の在り様が現前し、被災後の社会が、「明るく」と言うことで、それを切り捨
て、或いは置き去りにして進んでいることを、私はことさら声を小さくして指
摘している。怒りや悲しみが外側に現れず、鬱屈し内向する人々の心に、私は
告発の姿勢ではなく、できうる係わりのなかで近づいていきたい。

 そんなとき、こんな文章に再会し、胸のなかを風がさっと吹きぬけていくの
であった。

 文学に於いて、最も大事なものは「心づくし」というものである。「心づく
し」と言っても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし「親切」と言ってし
まえば、身もふたも無い。こころばえ。そう言っても、まだぴったりしない。
つまり「心づくし」なのである。           太宰治「如是我聞」
                          
 私は、ボランティアという言葉は使わない。使うことで隠蔽される、さまざ
まな構造を見逃さず「心づくし」の息のなかで、丹念にとらえたい。

 関東大震災のあと、政治的にはテロリズムが生まれた。文芸では、ダダイズ
ムが生まれた。すでに私達は、地下鉄サリンという無差別テロを起こした宗教
集団を有しているが、これからどんな息吹を生むことができるだろうか。かす
かな兆しか見えないが、被災後の社会との関わりこそが、ひとりひとりに問わ
れている。 



            −新たなはじまりに向かって−

 震災後1年をむかえ、家族や友人を失った人々は、「1周忌」である17日を
心静かに過ごしたいと考えていました。また、その一方で、被災地を忘れさせ
ないため、「1周年」のイベントに向けて、準備に懸命になっている人達もい
ました。

         だが、災厄はまだ終わっていない・・・

 今回は、この問題を真正面から受けとめ、一人一人が自分に立ち返ることで
出来上がった通信です。まだ、始まったばかりですが、今後更に掘り下げて発
信してゆこうと思います。
 次号では、それぞれの係わりの中で、被災地の様々な動きについて、ご報告
いたします。


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