Path: trc.rwcp!rwc-tyo!news.iij.ad.jp!inetnews.niftyserve.or.jp!niftyserve!TBE01656 From: 金子郁容 Newsgroups: tnn.interv.recovery Subject: INTERNET AND SOCIETY Message-ID: Date: 29 Mar 1995 19:37:00 +0900 Lines: 98 MIME-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp インターVネットのコーディネータをしている慶応大学の金子郁容 です。私がインターVネットを作るプロジェクトにコミットした背 景にある考え方を示すひとつの論文を紹介します。以下は、1994年 9月27日号のエコノミストに掲載されたものを、出版社の許可をと って、抜粋・編集したものです。最後の部分に注目していただきた いのですが、今回の震災によって、インターネットやパソコンネッ トが人々の生活に実際に役立つ社会基盤となりえるかどうか、可能 性と課題が出現してきたといえます。一部を引用したり、全体を転 載するときには、出典と著者名を明記してください。 日米パソコン落差の「深構造」 (1994年9月27日号のエコノミストより抜粋・編集) 金子郁容 慶応大学   情報のインフラストラクチャーというと、光ファイバーなどの 「線」の距離やパソコンの普及度が取り上げられる。実際、こうし た面で日米を比較すれば、米国の方が歴然と進んでいる。また、最 近ようやく関心が払われるようになったソフトウェアの面でも、日 本は明かに立ち遅れている。ソフトウェアが肝心だといいながら、 結局国や企業の投資は目に見えるハードに偏りがちという現実もあ り、由々しき問題だ。  だが、ここで取り上げたいのは、もう一つ先の、もう一つ深いレ ベルでの落差だ。  チョムスキーの言葉にディープ・ストラクチャー、深構造という ものがあるが、それをもじっていえば、ディープ・インフラストラ クチャーと呼ぶべきものがある。つまり、パソコン社会を成り立た せ、支えて行く社会的関係性の力という基盤である。  それは一言でいえば、広い意味でのコミュニティーづくりである。 コミュニティーというのは、必ずしも地域社会を意味しない。例え ば、パソコン通信を介して一緒に活動しているリサイクルの会とい うように、あることに関心を持ったり、目的を同じくしたりする人 々の集まりのことだ。インターネットを使えば世界中の人、例えば 高齢者、が集まれるわけで、地域的制約はかなりの程度超えられる。  こうした側面について、日本社会はこれまでほとんど関心を払わ ず、投資もしてきていないが、実はこれこそが、情報社会を真に支 える力なのだ。 インターネットの魅力の源泉  例としてインターネットの魅力を取り上げる。もちろん、何千万 もの人がつながっているとか速度が速いとかいうこともあるが、そ れは技術的側面だ。それよりも、インターネットが統一的な一つの 大きなネットワークではない、ということが魅力だ。どこかに中心 があって全てそこから線が延び、われわれの持つ端末にいたる、と いうものでは全くない。それは、もともといろいろな事情でできた 多くの中小規模のネットワークが存在し、それぞれがプロトコルだ け、つまり、一定の約束事だけは守りながらそれ以外は好きにやろ う、ということで集まってできた分散型、自律型のネットワークな のだ。一体になることも、ネットワーク同士どちらが優れているか と争うこともない。  また、インターネットは、米連邦政府・郡の資金で始まったもの でありながら、かなりの部分がボランタリーな力によって運営され ていることも魅力の一つだ。それは実際に所謂ボランティアが担っ ている部分もあるし、職業的に利益を追及する人々も、それをボラ ンタリーな方法でやっていることがよく見える。そこに米国の新し い力すら感じられる。 予算がついても動かない  新しいことを始めるときに、よしやってやるぞ、という人間がす ぐに集まれる状況が米国にはある。誰かの個人的イニシアティブに 呼応して「私もやろう」という形でのコミットメントの示し方やそ れを現実のものにする人材の流動性を支える社会的基盤があるのだ。 それが広い意味でのコミュニティーの力というものだ。イタリアの 地域研究をしているハーバード大学のロバート・パットナムは、誰 かが自発的に動いたときそれを支える地域の力、つまり、ネットワ ークを多様にサポートする力を、ソーシャル・キャピタル(社会資 本)と呼んだ。日本では、残念ながらこうしたソーシャル・キャピ タルの蓄積が非常に乏しいと言わざるを得ない。  ここ二、三年日本でも、米国の情報ハイウェイ構想に刺激されて さまざまな動きがでてきた。すでに通産省、郵政省などを中心に巨 額の予算もついてきている。だがそれがどう具体化するかとなると、 こころもとないものがある。  ニューメディアブームの時、中央官庁が主導した電子コミュニテ ィーづくりの試みがいくつも行なわれたが、はかばかしい成果があ ったとはいえない。ハードやソフトが十分でなかっとよく言われる が、それだけではなく、コミュニティーづくりの受け皿としてのパ ットナムのいうソーシャル・キャピタルが十分でなかったという解 釈も成り立つのではないだろうか。  そのとき以来、ハードについてはかなり、ソフトについても多少 の進歩があったとしても、それを支える社会基盤の方は、相変らず の未整備のままではないだろうか。現在計画されているといわれる、 小中学校の教育ソフトや自治体のネットワーク化などの構想にして も、自分のこととしてプロジェクトの運営にコミットする人、その 意気に感じてサポートする多様な人材や組織はあるのか。そういう 個人や組織を育成したりそれらがでてきやすいような社会環境を整 えないと、ニューメディアブームの二の舞になりかねない。  結局、日本の場合、受益者はいるのだが、あくまで棚からぼたも ちを待っている受益者であって、自らは動かないことが多い。それ に乗って儲けたい企業もいるし、所轄したい官庁もあってそれぞれ 熱心だが、コミットする受け皿が作れないのだ。  本来、日本社会にはコミュニティーの力があったはずだと思われ る。昔の結・講・座といったネットワークの存在を考えても、少な くとも戦前までの日本ではコミュニティーの力が非常に強かったと も言える。  現代日本でも、最近はフリーソフトが驚くほど沢山作られている。 また、コンピュータ・ネットワーク上にコミュニティーを作りたい という人が多く、パソコン通信ネットワーク上でのバーチャルなん とまりはすでに数限りなくできている。  問題は、こうおした動きがまだ単なる趣味の段階ないし個人的動 きに留まっており、ひとびとの実際の生活につながるようになって いくかどうかだろう。(以上)